骨董品の画像芸能界を引退した島田伸介さんが、話題となっている大物芸能人石坂浩二とテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」のプロデューサーとの確執及び降板騒動について、懇意としている芸能リポーターの井上公造氏を通じて「譲歩ライブ ミヤネ屋」でコメントを出しました。井上公造氏の芸能リポートに詳しく記載されていますので、テレビで放送できなかった部分も含めて紹介いたします。

島田紳介さんは、「開運!なんでも鑑定団」を立ち上げ石坂浩二とともに司会を担当していましたが、その経緯についても説明しています。

なお、今回のコメントは井上公造氏と島田紳介さんとの個人的な繋がりでコメントしたもので、井上氏の電話に対して島田紳介さんは、「取材やったら勘弁して。次々に取材に来られたら、たまらんから。でも、友人としてなら何でもしゃべるよ。あくまでも友人としてだけど、そのことをテレビで正確に伝えてね」と要請した上でコメントしています。

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まず、週刊誌等で報道されている10年前の忘年会で石坂浩二と制作会社のチーフプロデューサーが口論になったという報道に対しては、「言われてみれば、『あったかな?』という程度の記憶。大騒ぎじゃなかったはず。正直、そのチーフプロデューサーの顔も思い出さないし、個人的には食事や飲みに行ったこともなかったから」との返事です。

さらに、石坂とチーフプロデューサーの間に確執を感じなかったかを聞くと、「僕がやっていた間に、石坂さんがしゃべりにくい雰囲気はなかったはず」と断言しています。

島田紳助さんによると、「開運!なんでも鑑定団」は紳助さんにとって初めてのテレビ東京でのレギュラー番組だったものの、予算が少なかったためギャラも他局の番組と比較するとかなり安かったという。

さらに、島田紳介さんは、「僕は骨董品などに関する知識がなかったし、博識で知られる石坂浩二さんにどうしても出演してほしかった。でも、番組には予算がない。僕のギャラを半分渡すから、司会を受けてもらえないか頼みに行ってもらったら、石坂さんは快諾してくれた。たぶん、石坂さんの普通のギャラの半分以下だったはず。それでも受けてくれたのだから、石坂さんが番組に対して特別な思いがあるのは当然でしょう」。

電話を切った後、10分ほどして、島田紳助さんから井上氏にメールが入り、そこには「石坂浩二さんなしでは、あの番組が成功しなかったのは、絶対的な事実です。品位と格が番組につきましたから。僕だけでは、単なるバラエィーで失敗してました。確実に」と書いてあったそうです。

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その後、この内容を「情報ライブ ミヤネ屋」(日本テレビ系)で放送した日の夜遅く、再び、島田紳助さんから長文のメールが入った。冒頭は、「ありがとうね、思いを正確に伝えてくれて、感謝です」。

そして、その後になんとベッキー騒動に関しての見解も書かれていたそうで、その内容は次の内容だそうです。

「芸能界と関係ない僕が言うのもなんやけど、俺がいたらイライラすることあるよね。ベッキーもかわいそう。他人にヤイヤイ言われて。スポンサーやスタッフにはお詫びをしないといけないけど、すべてを失っていいと思って人を好きになるって、すごいやん。あんたらできるのか?そんな恋したことあるのか?と言いたいね。俺が現役なら、そう言ってましたわ。悪いのは男です。絶対守らないといけない男が、ゆるすぎる。写真撮られたり、離婚してないのに親に会わせたり。男が100%いかんよな。ロクに恋もさせてもらえなかった31歳のベッキーが、人生かけた恋を、人生かけて恋したことない人間には、理解してもらえないよね。タレントとしてはダメなベッキーかもやけど、僕はすべてをかけたベッキーが素敵に思えます。モラルやルールは分かるけど、それを超えた恋をした人は、3%もおらんよね。だから、世の中の97%に拒否される。でも3%は分かってくれる。ただ、相手間違えたかな?ずるい女の子なら、気がついてた。あー、現役なら伝えたかった!」。

出典:井上公造芸能リポート(http://bylines.news.yahoo.co.jp/inouekozo/20160202-00054055/)

【井上公造略歴】
福岡市出身。大学卒業後、フリーライターや雑誌編集長を経て、サンケイスポーツ文化社会部記者として事件・芸能取材を担当。1986年に梨元勝氏の「オフィス梨元」に入り、芸能リポーターに転身。その後、フリーとなり、1998年「有限会社メディアボックス(現・株式会社KOZOクリエイターズ)を設立。現在、日本テレビ「スッキリ!!」、読売テレビ「情報ライブ ミヤネ屋」、朝日放送「おはよう朝日です」など、数多くの情報番組に出演中